謎その4「水軍の起こりは?【水先案内人篇】」
村上水軍の歴史をたどると、村上水軍の名を歴史に遺した「厳島の合戦」での「海上の戦闘集団」としての活躍に代表されるように、「海の合戦」ばかりが強調されがちです。しかし平和な時には、海の水先案内、海上警護、海上貿易など、海の安全や交易・流通をも担っていました。兵とその家族を養い、艦船や武器を保有する資力を得るには、日常の生業が大切であることは言うまでもありません。
伊予の史書である「予章記」に村上水軍の発祥に関して「村上氏は海上の案内者、船上の達者」と記述されてあります。この記述からは、瀬戸内海にある数々の瀬戸の難所を航行する技能が水軍を発生させた要因と言えます。これに関連する村上水軍のでどころに関して、一つの説を紹介しましょう。
「村上氏の出自は、来島海峡に臨む大島南端近くの下田水(今治市吉海町)に拠点を置く
揖取百姓というのは、開発名主(百姓)であるとともに、付近の漁業者集団を統率する網元という漁村の実力者でした。そのため彼らは、荘園の発達とともに、島の年貢塩などの貢物回漕の主役を演じるようになっていきました。
そして戦時には、領主のために船舶や船員などを提供したようです。源平合戦のころの水軍というのは、臨時に招集された漁業者集団で、合戦が済んで報奨金をもらえれば解散という臨時水軍であったと考えられています。
その後、鎌倉時代後期になると、幕府の権威が失墜して、諸国に悪党や海賊が横行するようになりました。こうして瀬戸内海の治安が極度に悪化したとき、彼らは自分や顧客の生命・安全を守るために急速に武装化を進めて、警固衆(水軍・海賊衆)への道を歩むようになったのです。藤原純友の乱は、こうした動きの中で起こったものでした。

藤原純友の乱―圧政に苦しむ人民と港を襲う海賊
(出典「伊予水軍物語」:転載を禁じます)
記事作成 2006年04月25日
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