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村上水軍99の謎

尾道市因島の郷土史研究家で歯科医の今井豊さんが、やさしく村上水軍をQ&Aでお答えします。

謎その28 南北朝に村上水軍はどう戦ったのか?パート2 村上義弘・河野通尭を南朝に帰順させる

 恵良城から陣僧が村上義弘の下に、河野氏の切迫した事態を告げにきたのは正平20年4月20日頃で、報せを聞いた義弘はすぐさま義兄の今岡通任と協議した。

 今岡家は河野家の一族であり、義弘も河野氏に臣従している身であるから共に主君である通尭を助け、救出しなくてはならない立場にあった。

 二人が協議していく中で、河野氏が伊予の太守として復帰するためには、九州大宰府にいる征西府の懐良親王の助勢を受けるしかないという結論に達し、通尭を大宰府に行かせる方策を思案した。

 こうして、4月22日の夜、恵良城の搦手にある海岸浅海浦に軍船を漕ぎ寄せて敵軍の裏をかき、ひそかに通尭を恵良城から救い出し、河野氏・北の方(通朝の妻)の所縁中村十郎左衛門尉久枝の所領である能美島に護送したのであった。

 通尭と九州征西府とのつながりは、河野一族の重見通宗・通勝がつけた。その間に、義弘は周防大島へ渡って中子左衛門大夫藤重を頼った。細川方に新居大島を越智大島を奪われ、もはや陸上に寄せる所がなくなったからである。

 征西府への帰順工作が成功して、通尭の一行は、7月30日に築前宗像の大島に到着した。正平20年(1365)8月3日に河野通尭は宗像大宮司より派遣された使者に案内されて太宰府の征西府に参上し、ただちに征西将軍懐良親王に謁見して、南朝への忠誠を誓った。

 懐良親王より通直の名を与えられ、讃岐守を任じられた通尭は、これより河野通直として筑紫に布陣、菊地武光と協力して征西府へ忠誠を尽くすことになった。

記事作成 2008年08月09日

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